JAXYAの活動報告

弱者男性が「最底辺から最先端へ」と歩む記録

校歌は抜群だ!!

まずは最近考えていることから

 

考えごと

めっきり投稿が減った。書くことがほとんどなくなったのが理由としては大きい。

やっていることは毎日部屋の中で鬱々として時を過ごしているだけだから、本来の意味でのブログっぽいネタも書けなくなってしまった。

 

それとここ最近、コミュニティなんかで全く悪気はないのに意図せず相手を不快・傷つけるような発言が顕著になってきたので、どこの場だろうと極力余計なことは書くべきじゃないと判断したところだ。

 

コーヒーを淹れるのと文章を書くのが好きな僕ではあるが、感覚として二度目の大学に入りたての頃のバイトで経験した失言の数々と「どういうわけか相手が怒る」を今再び繰り返しそうな気がしているので、尚更のこと発言には慎重にならざるを得なくなったわけである。

 

そういうことを書く以前から、いや、昔からずっと僕のブログというのは仕事や環境への不満、対人関係や客への怒りばかり書き続けてきたので、いい加減悔い改めて大人になれよと自分を反省させる時期に入ったところである。

 

要するに一部の人にとっては面白いのかもしれないが、初見の方からすれば文句しか言わない日記と捉えられても仕方がない。もうそういうのはやめよう。

 

こうやって反省しつつ、何を書こうか考えてみたけれど昔から維持してきた日記スタイルを変えるというのは結構難しく、逆にそれしか書けないわけだ。というか、自分がブログを書き始めた動機としては

・統合失調症の闘病記

・やったことの記録

・生きていた証をここに残す

 

のを目的に続けてきた。あわよくば収益が入ればいいなとか目論見つつ、ここまで続けてせいぜい1万円くらいの収益。イキってAWSから3万円の高額請求が来たこともあったりしたせいで、長年のトータルで見れば赤字も赤字。

 

さて、培われた能力はタイピングの速さくらいだろうか。

 

まぁもう一度身の振り方を見直して、謙虚に自分が成長していくストーリーでも描いていければ、少しは認めてくれる人もいるかもしれない。

いずれにせよ、部屋の中に引きこもっていても何かが変わるわけない。後述するが、4月からは仕事も増えるし、もうちょっと動いてみてもいいのかも。意欲が出ないと嘆き続けてきたが、少しは改善の兆しが現れたか。

 

 

ってなわけで、

 

前回の続き

あらすじとしては、神の奇跡を起こす牧師が僕の通う教会に来て下さるということがわかり、ワンチャン彼に祈ってもらったら持病の統失が治るかもしれないと期待していたところだ。

 

本当ならば彼と接触して「こんな結果がありました!!٩( ᐛ )و」と即座にブログで報告をしたかったのだが、とうとう更新が5日も過ぎてしまったのには理由がある。「本当に治ったのか実感し、確かめたかったから」だ。

 

じゃ、近日の出来事や過程などを振り返っていこう。

 

3/20

この日は職場(僕はほとんど無職だが、不定期でとある学校の授業を動画撮影するバイトに入っている)での卒業式。仕事の最低限の説明以外はこちらから聞かないとマジで向こうからは何も教えてくれないので、実はこの学校が専門学校なのかさえよく分かっていない。

 

まぁそんな学校でも30名近い卒業生が今年も輩出される。今後どうなるのか進路も何も知らない。教養過程とか、専門職コースとか地味に細分化されているのを卒業式のパンフレットで初めて知ったくらいだ。

9時からリハーサルが始まり、配線と機材の設置ができる人の指示を中心に打ち合わせをする。こういうところでも地味に人手不足なのか、こんな入って5ヶ月程度の僕でも大事な晴れ舞台に駆り出されるとは。

 

僕は卒業式の音響設定係を任され、慣れない機材についてザッと説明を聞いただけだった。真剣に話を聞き、メモを取ればある程度は短期記憶の悪さもカバーできるもんだなと感じた。いや、僕には難しく感じられたが、正直言えば説明さえ理解できれば代わりは誰でも務まる気はしている。

 

結局無数にあるボタン、スイッチ、フェーダーなどの中でも一部だけを操作すればいいとのことで安心し、式は14時からだったので時間には大変余裕があった。先生がサックスの演奏をすると予め決まっていたのに、遅れた上にサックスを忘れてくるというアクシデントがあり、そのリハーサルだけは出来ずぶっつけ本番となった。(サックスは式までに誰かが届けてくれた)

 

要は喋っている人のマイクの音を聞き取りやすくボリュームを調節するのが役割なのだが、今までの人生経験で卒業式に出たことはあっても、送り出す側(裏方)をやるのは初めてだったので、緊張はするしミスは許されないし、これだけの説明でなんとかなるのか不安、自分がちゃんと理解しているのかも怪しい と心配だらけだった。

 

支給されたお弁当を頂き、一息ついて式が始まる。校長の話って世界共通で長いのかなぁと感じながらも意識が脱線しないように集中して音を調整する。残念ながら話した内容は全く覚えていない。自分が出た日大の卒業式でも理事長がなんか良いこと言っていたなーという思い出はあるが、何を言ったかは最早覚えていない。卒業式なんてそんなもんかもしれない。

 

サックスの演奏もちゃんとハウリングせずに音が取れて、無事に済む。校歌斉唱の際にCDをかけるのだが、この学校にもちゃんと校歌があったことに驚いた。しかも統失の幻聴と相性がよく、地味にいつまでも耳に残り続けてエンドレスで脳内ループされるタイプの校歌だった。

 

こうして式はなんの問題もなく終わる。

晴れやかな卒業生。あ、そうか皆は卒業していなくなるけれど、僕たちスタッフは今後も残り続けて新入生を迎え入れ、また次の卒業生が去っていくサイクルを繰り返すのか・・・・と、この年になって先生の視点をようやく理解した。

 

会場の後片付け、機材の撤収、配線の再接続などの作業があり解散できたのが17時過ぎ。この後卒業生たちと食事会があるから一緒にどうだ?と誘われたけれど、僕個人としては人生がかかっているイベントに向かわなければならなかったので断った。

 

 

僕は奇跡を見た

この日行われる牧師の講演は17時からで、正直言うと仕事がいつ終わるか分からないので少し苛立っているところがあった。結局18:05に教会に途中入場という形で入らせてもらい、開始から1時間は経過していた。話している内容は「無宗教でも教会に入りやすい体制を取るのが今後の教会の努めだ」だったのを覚えている。言い忘れたがゲストの牧師はマレーシア人で、英語で喋っており教会員の英語が得意な人が通訳をしていくという形式。

 

講演も最後の方になると「今、信仰心が足りていないのは奇跡を知らないからです。これから奇跡を起こします。そして皆が祈るようになることを信じ願っています」と言ってから5分くらいのショートムービーが流れる。

 

詳しく覚えていないが、タイとカンボジアの国境付近にある難民キャンプに牧師と仲間たちが出向き、怪我をして歩けない、耳が聞こえない、目が見えない、変な腫瘍ができている と言った人達を次々に一瞬で癒していく「奇跡」のしるしを3,000人以上が集まる中で行う内容だった。

 

前回の記事では「奇跡は体験するまで信じない」と書いたが、もうこの動画の時点で騙されていても良いやと割り切り、自分の中で何かが少しでも改善するならば、たとえ周りから馬鹿にされようが「神様はいる!」と主張を曲げないと心の中で勝手に誓っていた。

 

一体今宵この教会で何をするんだろう?僕は変われるのか?!期待が高まる。

 

動画が終わり、周りから「ハレルヤ!!」と称賛が飛び交い、それが落ち着くと彼は簡単に説明を始めた。

出来ることは病気を癒すことに限られる、それを色んな病気があるが3つのステップで順に癒していく、と。

 

  1. 背骨、膝、腰などの関節痛
  2. 腫瘍、癌も
  3. 呼吸、その他鬱などの精神病、あらゆる病気

1に関しては、僕は35歳だしほとんど働いていないので、そういうのを気にする歳ではないが高校生の頃から顎関節症を患っていた。

2については、実は鼻の左奥に変に発達して伸びた軟骨があり、右は粘膜が腫れていて地味に呼吸がしづらい(去年の胃カメラの際に言われて「確かにそうかも」と納得した)

3呼吸はタバコを吸えるくらいには余裕がある。精神病というか今回一番治してほしい要は統合失調症である

 

説明が終わると牧師は祈り始めた。礼拝堂の空気が変わった感じがした。どこか慈悲深く温かいというか。

そこからは凄かった。決して馬鹿にしているわけではないが、もう全身全霊の「痛いの痛いの飛んでいけーーーーーっ!!」って感じだった。英語でなんと言っているか聞き取れなかったが、本気で叫んで病に根付く邪悪なものを吹き飛ばしていく感覚。

すみません、自分の文章だとこう表現するのが精一杯です。体験してもらわないと信じてもらえないだろう、自分の力量不足を感じる。。。

 

各ステップごとに「癒された方は前に出てきてください」と呼ばれ、毎回10人くらいが前に出てくる。長年膝に痛みを抱える叔母様が「痛みを感じないの」と言って牧師と一緒にその場でスクワットをしてみせたり、四十肩が上がるようになった人、首の可動範囲の制限がなくなった人なんかもいた。ちなみに僕の顎関節症には効果がなかった。

 

3つのステップが終わり、前に出てきた人の改善された奇跡の報告を嬉しく羨ましく思う一方で、自分は「んー、鼻の通りは良くなった気がするかな・・・」程度で「何もないよりはマシか。でも奇跡ってこんなもんなのかな」とかなり落胆していた。

 

まぁ自分は信仰心は薄いし、あまり教会にも通っていない。献金もほとんどしていないし、都合よく神に祈るなんて、なんかセコいよな・・・と思うところがあった。

 

講演会も盛大な拍手に包まれて皆がハッピーな気分で教会を出ていく中、関節くらいならばどうにか出来るのかもしれんが、流石に精神病は神様には無理か・・・と諦めて帰り支度を始めていたところ、いつもお世話になっている牧師から「ちょっと、ちょっと、」と呼び出され別室に向かうと今日の講演を行なって下さった牧師が待っていた。

 

今回150人くらいが参加した講演会で、何人か深刻そうな話を事前に聞いていた人には特別に個別で祈ってもらえるらしかった。スマホのメモに願い事を事前に書いてきたが、そんなことも忘れていて、僕は必死で拙い英語でI have Schizophrenia! and thin joint not open and close smooth!! と訴えていた。

 

必死で祈り、彼はまず顎の関節に触れた。開閉する際に時折痛む、そんな関節だが触れられている際に暖かさや痛みなどは一切感じなかったがものの2秒くらいの最中、なんか関節や骨の形状がポジティブな意味で変形していく感覚があった。

開閉してみるように指示があり、実際に口を開けたり閉じたりすると痛みが生じないどころか前よりもスムーズになっている!ハレルヤ! 

 

 

続けて統失についても祈ってもらう。目を閉じ、前に歩くように指示された。そのあと耳元で3回くらい指パッチンの音を聞いて通訳から「もう大丈夫、目を開けて」と目を開けた途端に頭の中の霧が晴れた感覚があった。この日の天候は雨だったが、自分の上だけ晴天が広がっているとさえ思えた。と同時に、統失で今まで辛い思いをしてきた記憶が一気にフラッシュバックしてきて急に涙が溢れ出して号泣してしまった。16年に渡る闘病はこれで終わったのだろうか。

 

何度も牧師にお礼を伝えた。16年ぶりに快適な頭を取り戻した気がする。絶対に症状は良くなった。しかし治ったのかは実感がなかった。頭がまともに働くならば、やがては神に社会に還元していきたいなと本気で思うようになった。ハレルヤ!

 

改善したと思われる箇所は、鼻の通気(鏡で鼻の奥を覗き込んだら鼻粘膜の腫れが見えなくなっていた)、顎の関節(格段に口の開閉がしやすくなった、なんかアゴの出っ張った部分が収まっていた)、頭の雑念が取れた だった。

 

とても長い1日で疲れたので、帰宅して寝る。

 

 

3/21

ズダダダダダダ・・・!!!!!!

実は先月末からウチの隣の家が解体工事をしているのである。いつも以上にうるさく、ノイキャンヘッドホンを突き抜けるくらいだ。やっと平穏な頭を手に入れたはずなのに・・・と起こされた苛立ちと騒音でこの日は前日の奇跡の余韻を噛み締められなかった。

 

夕方には工事が終わり、友達が泊まりにきてくれた。

明日は3月の最も大きなイベントがかかっているからだ。

 

 

3/22

お花見。一ヶ月くらい前から計画を練り、修正を重ねてとうとうこの日が来た。

場所は上野恩賜公園。ちょうど桜開花の時期で、しかも日曜。激混みが予想された。

事前に下見をし、この公園のルールなどもチェックしたが分からないことは多々あった。今思えばほとんどの心配事が杞憂にすぎず、それに関しては本当に友人たちを巻き込んでしまって反省している。

 

朝5時から場所取りに行き、良い場所を確保できた。これが出来るかだけが最も心配だったのだ。なんなら公園の全出入り口にロープが張ってあり、警備員が立ち入らないように封鎖しているのかとも想定していたし、同じように来園した人たちと場所を巡って争い、喧嘩に発展するんじゃないかと少しビビっていたところもある。

 

たまたまその日が運が良かっただけだと思うが、4:30には普通に公園に出入り可能で、すでに4組くらいはシートを広げて場所を取り、寝袋で寝ている姿も見られた。

17時くらいまで花見をしていたわけだが、人が来始めたのも8時過ぎくらいで一等地さえ諦めれば10時くらいでも余裕。昼から混んできたかなといった具合だった。たまたまだと思うが。

 

結果、屋台なんかも出ていて念願だったお団子を食べながら日本酒と桜を楽しむことができたのが個人的には大満足で、皆も口々に「楽しかったよ」と言ってくれたのが嬉しかった。本当に自分の段取りと伝達力が最もダメだったなと反省し、また機会があれば次に活かしていきたい。 結果が良かったから、これは成功と言って良いだろう。最も、友人たちのアドバイスや協力がなければ、僕は頓挫していたかもしれない。来てくれた人も含め、皆に感謝だ。

あ、そうそう 取材が来てチラッとテレビに映ったりもしました。うん、楽しかったな。

 

3/23

花見では潰れない程度に慎重に飲んだ。二日酔いはしなかった。でも寝起きで盛大に嘔吐。あまりにも酷かった。今日も解体工事がうるさい。果たして統失は治ったと言えるのだろうか。それを早く実感したいのだが、静まって自分の心に聞ける環境ではない。疲労もあり、翌月の予定を確認する程度で1日が終わる。頭の中で職場の校歌がループする。

 

 

3/24

この日も激しい嘔吐。午後からようやく体調がマシになり、教会の食事会に提供するコーヒー豆を買いに新宿へ。今回も理想の豆が手に入り、とうとう店員さんに顔を覚えられた。こういう関係になると、豆とか抽出に関して色々教えてもらえるようになるので、何かが一歩前進した気分で非常に嬉しい。

夜の食事会でも皆が僕の淹れたコーヒーを喜んでくれた。

 

3/25

せっかくマレーシアの牧師に頭を癒してもらったのだから、何か行動を起こさねばと思いノートを振り返った後に読書をしようと思い立つ。

ところがこれまでの過密なイベントの数々と目玉が爆発しそうな気圧のせいで何も出来なかった。2時間頑張ろうと机に向かっただけでも自分を褒めたい。頭が治ってきたら週3で働こうかな!なんて思っていたのに、昨日のあの気圧を前にして「ダメだ、もう一生社会復帰できる気がしない・・・」と、一日中布団で横になっていた。

 

3/26

今日。ああ、今日も気圧が。。。どうしていつも頑張ろうとすると体調が悪くなるのだろうか。これが神の導きであるならば、もう一生頑張れない気がする。こんな奴だがこれでも高校の頃は皆勤賞とか取ったんだぜ。それが打って変わって今じゃ毎日休みみたいな状況だ。

 

なんとか夕方から落ち着き、こうしてブログを書いている。幻聴がしなくなった気がする。その気になれば曲の脳内再生は可能だが。

 

 

奇跡はあったのか

断言する。奇跡はあった。文章だけじゃ信じられないと思うが、実際に体験をしたからこそ言える。病気が治ったのかと言われると、そこは「軽くなった」としか今は言えない。これから徐々に治っていくと期待したい。やっぱり周りとコミュニケーションに齟齬があったり、未だに気力が湧かない、短期記憶が弱すぎてやべー、長文で説明されると何が書いてあるか読めない、などなど問題は沢山ある。

それでも、少なくとも頭の霧は晴れてきた感覚がある。性格や思考の癖までは変わらないらしく、急に頭が良くなるわけでもないが、あの講演が何か人生のターニングポイントとなるきっかけではあると言える。

 

 

今後の展望

冒頭に「4月から仕事が増える」と書いたと思う。

理由は2つあって、

・現在勤めている不定期で入っている学校の撮影のバイトが週2になった

・お菓子やケーキを作るのを得意としている方が、コーヒーが淹れられる人を探しており、たまたま暇でコーヒー好きな自分が選ばれた

 

というのがある。1つ目は職場内で1人がクビになったのが理由らしい。結構良い加減な仕事だと思っていたが、クビとかあるんだとハッとし、4月から再度気を引き締め直す。

 

2つ目。まだ僕が働くかは計画段階なのだが、都内にレンタルスペースのカフェがあり、そこで不定期で営業しているお店をやっていらっしゃる方(教会繋がり)がワンオペだと手が回らないのと、そもそもコーヒーに関しては全く知識がなかったので猫の手も借りたい状況だという。

そりゃあ好きで毎日コーヒーをドリップをして飲んでいるし、かつてはドトールやベーカリーカフェで働いた経験もあるが、正直言うと自信が全くない。時折友人がウチに遊びに来た際にはコーヒーを振る舞ったりもするが、プロ意識がないので提供したコーヒーに対してお金を請求したことは一度もない。そのくらい自信がないのだ。(別にコーヒーじゃなくても、友人に金を請求するのって良い気分がしないんだよな。)

 

教会で先日そのお菓子屋さんの人も含めてコーヒーの試飲会をしたときは、次々と人が集まって10人くらいになったし、皆「美味しい」とは言ってくれたのを嬉しく思った。一方で、この時も、そして今までもお金の請求をしていないので、果たして「美味しい」とはタダで飲む分には満足ができる程度のクオリティなんじゃないかと不安になるわけだ。一体お客様は僕のコーヒーに対して幾ら払えるのだろう。

 

そんなわけで、明日は昼頃から相方のお菓子担当の方と一緒に、働くことになるであろうカフェの視察に行ってくる。そこで厨房の設備や動線などを確認し、同時にこれまでのお店を開いた際の売り上げや店のコンセプトなどを確認し、働く上で何を担当すれば良いのかなどをチェックしておきたい。

 

カフェで働くのは5年ぶりくらいになるのだろうか。コロナを機に飲食で働くことは微塵も考えていなかったが、一応過去の経験が役に立つ時が来るかもしれない。

 

なんとか祈りによって少し脳もクリアになったし、少しでも神様や社会に還元できるかな

頑張るぞー٩( ᐛ )و

 

 

そして日曜は教会で来賓の方にコーヒーを提供する役割を任された。なんか教会内での噂って村社会に似ていると思っていて、すぐに広まる。ちょっと食事会でコーヒーを出したら教会のほとんどの人が「コーヒーが得意なのね」と知っている。最近本当に「口は災いのもと」を痛感しているから、悪評ならばあっという間に広がりかねない。気をつけよ。

 

一歩強くなった。

じゃ、今回はこの辺で。

さようなら、統合失調症

さようなら、統合失調症

 

近況報告

盲目の人が目が見えるようになった?! 耳が聞こえるようになった!!? 車椅子の人が立ち上がって歩いて帰った?!

 

突然だが、奇跡って信じるか?

 

サイコロ3つ振って1のゾロ目が出た!ラッキー! この程度ならば確率で言ったら「そりゃいつか出るわな」となるわけで、奇跡としてはちょっと弱い気がする。

一度カードゲームでロイヤルストレートフラッシュと同じような効果の手札を初手で揃えた友人を目撃したことがあって、そのくらいまで行くと奇跡だ!と流石に思うわけです。しかしそれは凄いけれど所詮は遊びの範疇。

 

さて、到底現代の医学じゃどうしようもない病気を、ちょっと祈ったり触れたりするだけで治すというのは、幾ら令和の時代だろうと科学じゃ説明しきれない。

たった数秒で患者の身体に何が起こっているんだ?と、僕は懐疑的な目で彼の動画を見るわけだ。花見の時期だが、病人たちはサクラじゃあるめぇし。

 

そういう意味じゃ、本当の奇跡というのは見たことがないかもしれない。弟が交通事故に遭って1週間近く意識不明だったところから、後遺症もなく全快したのは紛れもない奇跡だった。事故現場は横浜だが、長野の婆さんが毎日1km歩いて祠までお参りしていた効果もあったのかもしれない。まぁいずれにせよ当人の回復力によるものがほとんどで、神頼みとかの範疇は「別にしなくても回復したのかもしれない」と今になったら地味に思うところがある。

 

 

変な前置きになってしまったが、冒頭に書いた信じ難いミラクルの数々を起こす牧師が、なんと明日、自分の所属する教会にいらっしゃる予定だ。

 

海外の動画で、数千人規模の公演を開いて何人もの病人を一瞬で回復させていくところを見ると「本物」じゃないかと、少し胸がときめき「ダメ元で行ってみようかな」なんて思えてくる。

真偽は自分の目で確かめたいからだ。

 

果たしてその奇跡を起こす牧師に祈って貰えば、自分の半生を蝕む統合失調症は治るのか?医者に病名を診断された時、当初は必死に治そうとハードな武道に取り組んだりもしてきたが、軽減はすれど治ることはなかった。

色々と統失関連の本を読んで「せいぜい寛解がいいところ」みたいな趣旨を読んで「なんだよ、結局治らない病気なのか」と人生ごと諦めていた。

 

「大して変りゃしないのに、なんで具合の悪くなる薬を一度も欠かさず10年以上服用してんだ・・・」という気分も、すっかり薄れてしまって今でも惰性でバカ高い薬を飲み続けている。便秘になるだけでちっとも効果が現れない。

 

 

そりゃ精神病は、風邪みたいに薬を飲んで大人しく寝ていればとか、初期のガンみたいに早めに見つかって除去さえすれば って代物じゃない。

風邪もガンも辛いのは分かるが、統失の辛さというのは非常に目に見えにくい。しかも人によってタイプも違うし、専門書に書いてある内容も「お前当事者じゃないから推測と経験でモノ言ってんだろ」としか思えない記述が多々ある。

 

支離滅裂になってから俺は物凄く口数が減った。

同じ日本語という母国語で優しく説明してもらっているのに、微塵も理解できない。

短期記憶が絶望的に弱くなり、3秒前にあったことが思い出せない。

感受性が死に、あらゆる娯楽が享受できなくなった。

頭ではわかっているはずなのに、出来なくなったことが山ほどある。

皆はスラスラこなしているのに、自分だけ置き去りにされたことも数えきれない。

どっかで聞いたメロディが脳内でエンドレスリピート。今じゃ幻聴を相殺するためにヘッドホンが手放せない。

 

書ききれないほどの悩みや困難がある。出来そうだと思っても何故か上手くいかない。結果として「僕は何も出来ない無能なんだ・・・」と自分を全否定し、何度も脳内で自殺のシミュレーションをして、とうとういつでも死ねるプランまで編み出してしまった。

 

健全な人間ならばこんなことはしないだろう。どうせ変なことを考えるんだったらエロい妄想でもしていた方がはるかにマシだ。最早性欲すらなく、ネガティブなことしか考えられなくなっている。

 

 

自分がキリスト教徒ながらに、今一つ信仰心が薄い理由は奇跡を目撃したことがないこと、そして自分が神の子であるにして、出来損ないだからだ。

 

つーか全知全能の神様がいつもそばにいて見守っていてくださるのならば、どうして俺は統失になんかなってしまったんだという激しい憤りがある。

ここまでネガティブなことを書いておきながら、自分の幸福度は割と高くて決して自分のことを不幸だとは思っていない。

 

まぁ何かが変わるかもしれないと薄ら期待して、明日の仕事が終わったら一目散に教会を目指すつもりだ。

 

 

 

どこまでも不安なやつ

果たしてどうなるのかは分からない。何かしてくれるのかも分からない。

なんせ統合失調症が治った自分というのが全くイメージできないからだ。治らないかもしれない。

 

彼の起こした奇跡にはポジティブな話しかなく、回復したその後どうなったかは全く知りようがない。

健全な脳と思考回路を手に入れた代償として頭痛が常に付き纏ったりしないのだろうか。「お前なんか変わったよな」と言って友達が急に離れて行ったりしないだろうか。もう本を読む時に2行前の内容を忘れて文脈が分からなくなったり、雑念に囚われて思考が脱線することも無くなるのだろうか。

 

いや、正直いうと治る(変わる)というのは結構怖いのである。

だって従来の「35歳無職統失」のなんとなく可哀想な肩書きが、「35歳無職」に変わるのだから。病気が治った!頭が快適だ!本が読める!皆と流暢なコミュニケーションができる!楽しい!嬉しい!

 

一方で、

35歳のキャリアもろくにない(バイト経験しかない)健康な無職になるわけだ。

 

で、どうする??

ってことになりかねない。

 

月一のだるい診察がある精神科に通う必要はもう無くなるかもしれないが、障害者手帳はなくなり、生活保護のケースワーカーも「治ったならば働きましょうね」と詰めてくるかもしれない。元気になったとして、最早障害者じゃないのであれば障害者雇用という選択肢もなくなり、ハローワークで仕事を探す日々になるのだろうか。

そういえば長らく滞納していた年金という存在が再びのしかかり、健全になったお陰で唐突に欲も増えて金遣いが荒くなる。

 

障害者だから「仕方ねぇかー」である程度許されていたことが、健常者になることで一気に責任が伴う。

 

 

なんでこんなことを考えるのかって、自分の病気の場合は特に行動が制限されているわけではないからだ。「無理はするな」と言われてはいるが、別に気が向いたら登山をしたっていいのだ。足腰に不自由はないから。海は嫌いだが、海水浴だってできる。一応泳げるし。

 

せいぜい病気が治ったらできることの選択肢として思いつくのは、運転ができるようになることだろうか。「元統失」が運転をしてもいいのかは詳しく知らないが。

 

 

 

目の前に障害を治してくれるかもしれないチャンスがあるのに、なんか行くのを躊躇してしまう。こんな馬鹿なやつ世界中探しても自分だけだろう。本当に自分なんかが病気を治してもらってもいいのか?と、ちょっと遠慮しがちなところもある。困っている病気の人なんて沢山いるのに・・・。

 

 

え、どうなるんだよ。何か変わるかもと期待していいのか? あれ、おっかしーなー君には何も効果がなかったみたいですねぇ、なんて残念な結果にならないのか(それが普通だと思うが)

 

とりあえず「治ったらラッキー」くらいに思っていればいいのだろうか。治ったら、それはそれで先のことを考えていけばいいのか。

 

うーん、こんな判断すらできないのは、やっぱり病気なんだろうな。

 

 

ってなわけで、

次回に続く。

ブログのタイトルを変更しました

結局自分は・・・自分は・・・

 

これまでのあらすじ

自分の中で1月はなかったものとする!以上!!

 

近況報告

 

まぁ上述の通り、今年の1月は無かったものとした。理由を聞かれても困るが、強いていうならば悪夢を見させられたからだと答えておこうか。はい、この話は終わり。

 

 

じゃあ2月1日からが自分の中での新年の幕開けだー!!٩( ᐛ )و と割り切るじゃないですか。いや、割り切るしかなかったんですよ。全財産も4000円くらいだし。このジリ貧の状態から一年がスタートするぜと。

 

 

しかし金銭的にジリ貧でも、生きていけるとわかった。そのコツが知りたいとか言われても、正直クレジットカードに頼っているからとしか言いようがない。よくクレカの話をすると「幾ら使ったのか分からないから現金を使うことが多いですねー」なんて話を耳にするけれど、普通に家計簿をつけていれば翌月の請求が何円なのかは一目瞭然だ。今ならばそういうのを自動で管理する家計簿アプリだってあるだろうし。

 

ただ自分は翌月の請求にしっかりと対応できる額までしかカードを使わないように留意しているというだけだ。

 

 

それでもお金が無いことに変わりはなく、今月はほとんど買い物をしていない。そういや都民には「東京アプリ」から11,000円分の東京ポイントが貰えるというイベントをやっていたなと思い出す。

 

正直なところ、棚からぼた餅的に突如11,000円相当のポイントがフッと出てきたところで幸福感への変化や、長らく続く鬱症状が改善するわけがなく、めちゃくちゃ頭を使って無理やり欲しいものを考えてみたりしたが苦しくなったので考えるのを辞めた。

 

特に有効期限のあるポイントでは無いのが考えるのをやめた理由だ。東京ポイントは申請して3,4日くらいで貰えた。案外手続きが早い。それをどこのポイントにするかは本当に一瞬で交換ができた。自分は8000ポイントを楽天に、3000ポイントをメルペイに交換したわけだ。

 

本音を言うと、ポイントの中では一番使い勝手が良いというか、お金とほとんど遜色ないくらい違いが少ないJREポイント(要するにSuicaチャージ)にしたかったが、交換先のリストになかったので、仕方なく楽天にした。

 

僕は楽天のポイントでタオルケットをゲットし、そのお陰か普段よりも良く寝られる日が続いている。これでも2000円くらいだったので、まだポイントは余る。とにかく欲しいものが思い当たらず、ボロくなったものを買い替えるしか使い道がなかったのだ。それに楽天のポイントが使えるスーパーというのも近隣にはあまりなくて、地味に生活費の足しにはなりにくい。

 

メルカリの方にもノリでポイント交換しておいたが、使う機会はまだ訪れていない。内心では欲しい本があった時に、中古で買おうかなぁくらいにしか考えていないのだ。

 

とりあえず今月も生きていける。その事実さえあれば十分だ。あまりお金を必要としていないながらも、近頃は価格高騰対策支援金とか言って区から住民一人あたりに4000円を給付するという通知も来た。振り込みは3月頃になるらしい。

 

世間からすれば貧困家庭にはなるだろう。確かに4000円も貰えるのはありがたい。一方で、これも使い道を考えるとそれだけで1日が終わりかねない。米を買うくらいしか使い道が思いつかない額だなぁとか思いつつ、家計簿上では来月は総計で3万円は貯金できることに対して喜びを覚える。

 

 

しかしながら、あまりにもメンタルが荒んでおり、幾ら貯金が増えようがずっと「近々失踪したろかな」ばかり考えていた。なんせ一日中暇なので、死ぬことに対して頭を使うことくらいしか出来ないのだ。あらゆるコンテンツが受け入れられず、病気で本を読むことですら支障が出てくる。要するに何も楽しくない日々が延々と続き、時折ゲロを吐く時だけ生きている実感があると言った具合。

 

まぁ死ぬことに関してはいつでも出来るからヘラヘラ生きているわけだが、それでも35歳もまもなく終わろうという段階になってくるとしんどい。ヘラヘラ生きるというのは、現実を直視せずに無責任に生きることと同然なのだが、そういうツケみたいなものが一気に最近押し寄せてきたなと感じるところだ。

 

あの時もっとちゃんとやっていれば今頃は・・・

 

と、35年の人生を振り返って、嫌な過去の記憶がフラッシュバックする。言っておくが僕に戻りたい過去は無い。仮に戻れたとしても、最早人生をやり直す気力も持ち合わせていないのだ。だから仮に過去の都合がいい時期に戻れたとしても、きっと頑張れないだろう。常に不調と隣り合わせの人生だし。

 

 

 

起きたら時刻は8:30

消極的な気分で朝を迎え、コーヒーを丁寧に淹れて幸せを感じる。決して自分は不幸ではなく、何不自由ないお一人様のお気楽な時間を過ごしているんだと割り切る。

今頃都内の電車は大混雑しているんだろうな。それでも自分はジャージ姿でコーヒーを飲んでくつろいでいる。

 

いつまでこの幸せが続くのだろうか。やはり戻りたい過去がない。

 

 

 

 

 

それはそうと、去年資格を取った翌日に誕生日を迎えて35歳になった辺りからずっと鬱が続く。ここまで気力に乏しく生産性がない時期が長期に渡ったのは初めてだった。しっかり食えば、しっかり寝れば鬱は治ると信じ、ストイックに医者から出された薬も欠かさず飲み続けるが副作用で便秘になるだけで、何も改善がみられない日々が続く。

 

やる気が出ない病気、しかも唯一娯楽として享受できるものが読書だけだったので、本が読めない上に読む気も起こらないとなると、マジで1日の退屈さは相当なものになる。

一応自分の夢としては「コーヒーを飲んでくつろぎたい」願望があった。それが叶ってしまって日頃の生活としては、好きな時に起きてコーヒーを飲み、存分くつろいだ後に「さぁ、何かに取り組もう」と思って机に向かうまではいい。

良いのだが、「はて?何をしたら良いんだろう?」で一日悩み、「今日もやることがわからなかった」と呆然とした時間だけが過ぎて変に疲れる。日も暮れた頃に酒を飲み、軽く酔った状態でまた考えや悩みなどを書いて、眠くなった頃に寝る。なんとなく何もしないのも嫌だから不安や悩みをひたすらノートに書き殴っているのが最早習慣となっている。

 

それの繰り返しだった。

夢がこんな形とは言え叶ったが、その先のビジョンが一切なかった。だから「これからをどうしよう・・・」となるのである。

 

気づけば体重も3kgくらい増え、風呂も4日に一度くらいしか入らない有様。

このままじゃマジやっべー!と心では思いつつも改善を全くしない自分がいる。

 

ただこうして日々「つまらねーなぁ」とか思いながらも、無理やり考えていることをipadのノートに書き殴っているうちに、徐々にだがやるべきことは見えてきた気がしている。

 

 

 

今の立ち位置を把握せよ

置かれた状況をちょっと整理しておきたい。

  • 生活保護受給者
  • 統合失調症(精神障害3級、障害年金は貰えていない)
  • ブレインフォグと致命的な短期記憶の弱さでコミュニケーションに難あり
  • 加えて嘔吐に苦しんでいる(これでも大分マシになった)
  • ほぼ無職(不定期で動画撮影のバイトがある)
  • 現状での夢が叶ってしまっている
  • 今は目標も夢もやりたいことも特にない
  • 世間体としては就職するのが最適解なのか?と常に悩む
  • あと3ヶ月くらいで36歳になってしまう
  • お金は無いが、欲もほとんど無いので特に金欠には困っていない
  • 賢い友人たちに恵まれている
  • 今後をどうするかで常に悩んでいる

何度でも言うが、自分は特に不幸だと思っていない。欲がないせいか、もっと幸せになりたいともあまり考えていない(これ以上の幸せな状態がイメージ出来ない)

 

こんなことを毎日書き出しながら自分を見直してみるくらいには十分な時間があったとは感じている。良い加減書き出してばかりいないで、何か行動を起こせよと自分をぶん殴りたい気分だが、全く動き出せないでいる。

 

漠然とした悩みが、根本的に何が問題なのかに落とし込めてきたような感じはする。

要するに35歳までにこれで!という道で腹を括って生きていかねばならない気がしている。(それも元は35歳までにキャリアを固めないとお先真っ暗だよと他方面から脅されているからだが)

しかしながら病気で頭は悪くなっていて、体調もやる気も不十分。正直このまま生活保護でも何ら金銭的には困ることが無いのだが、果たしてそれで良いのか?ってところだ。

 

以前にも話したように、自分というのは本質的には年金暮らしのジジイと大差ないわけだ。

親族の話を出してしまうが、僕のお婆さんがかつて心臓のバイパス手術をした際、それは非常に難易度の高い手術だったそうで本当に亡くなってもおかしくないと言われていた。奇跡的に一命を取り留めて、それから7年くらいは元気でいた。足腰が弱って今度は大腿骨を骨折した際にも、手術と本人の持ち前のバイタリティとリハビリによって歩行器すら使わずに歩くことが出来るまでに回復を遂げたが、もう一人暮らしじゃ誰も助けてあげられないからと老人ホームに入所する流れになった。

 

そこは炊事も洗濯もしなくていい、ただプログラムをこなして時折散歩に行けば良いというだけのところらしいのだが、まぁ医療費だけで言えば新車が一台買えるくらいはかかっている。しかし国民健康保険で負担は1割。僕は「自分にこんなにお金がかかっていたなんて・・・」とお婆さんが改心し、それまでのダラダラした生活を見直して、毎日目的を持って残りの人生を大切に生きていくモンだと思っていたのだが、これがまぁ見事に何もしていない。

 

むしろ一人で炊事洗濯などをやっていた頃の方が生き生きとしていたくらいだし、娘たちはロストテクノロジーとなりつつある漬物の技術をノートに書き残すことを望んでいるが、そんなことすら婆さんは面倒でやっていない。

 

そういう自分も生活保護を受給してみて、最初の5ヶ月くらいは頑張ってみたものの、だんだんと何もかもがどうでも良くなり、果てにはブログの更新さえもろくにしなくなってしまった。婆さんも自分も頑張れない性質なのかっていうのは、家系や遺伝で繋がっているのか、それとも環境がそうしているのか分からないが、僕自身は受給する前まではもっと頑張れるものだと思っていたから完全に想定外だ。

 

世間の大半の人たちは「仮に落ちぶれて生活保護になったとしても、俺なら3ヶ月で復帰する自信あるね」ドヤッ) なんて思っているんじゃないだろうか。

なってみると分かるが、毎日休みが続く人生をどう捉えるか次第で生活保護は天国にも地獄にもなりうる。サラリーマンの頃からは想像もつかないくらいに「毎日何もしなくていい」が延々と続く。「こんなに休んでいて、なんだか気持ち悪りぃな」と働きたくて仕方なくなる人もいるんじゃないだろうか。

受給者の中には保護費が足りないとか、あれもないこれもない・・・!!と主張する者もいれば、僕みたいに満たされ過ぎていて抜け出せなくなりつつある人もいるだろう。

 

一体どうなんだろうか。働くにしては心身に余裕がないし、ダラダラ静養をするほど具合が悪いわけでもない。何もしなければあまりに暇だから、片手間で副業めいたことでもやってみようかと妄想をしたりはすれど、これといってやりたいことが思い浮かばない。

 

あまりお金を必要としていないが、例えば記事を書いて収益が入ってくるなどのインセンティブがあれば、少しはモチベーションも上がるのだろうか。どうせ暇だしまともに職を探しても大したところには就けないだろう。時間だけは無限にあるので、何かに挑戦してみたい意欲だけは辛うじて残っている。

 

とりあえず36歳になるまでに、一つ方向性を決めたいところだ。

 

 

 

ってなわけで、

 

キャラ変えました

元のキャラを隠蔽するつもりもないが、やっていることと掲示している内容に乖離が生じてきたので、今一度自分らしさを象徴するキャラクターをバシッと作ってみた。

 

JAXYA(弱者)である。

今更プロフィールもいいべ、ってことで割愛するが、まぁ以前のメガネのレゴ人形で頭にクラウドを載せたキャラは自分らしくないってことで取り下げた。

萎えたロケットのような見た目をしているが、これから元気になっていくのを見守りください。ちなみにブログのスタイルを著しく変えるようなことは、あまり考えていない。

 

 

 

はい、

アクティブログ(活動記録)

2月といえど、特に何かしたわけでもないんだよね。最近は断捨離にハマっていて、徹底的に家の不用品を処分することに夢中になっている。ところが日頃から整頓が出来ているので、結果としてレジ袋2枚分のゴミしか出なかった。

 

あとは良い加減溜まった本をどうにかするべ!と思い、読んだけれどなんとなく取っておいた本、未読のものなんかをどうにかしたいと思うようになった。実家から持って帰ってきた本の山を2年くらい「良い加減処分するぞ・・・」と思いつつ、とうとう2026年になっても片付かなかった。中には現在入手不可能の絶版などもあったりするのだが、メルカリで見ても買い手がつかないのが分かって潔く資源ゴミに出したこともあった。

 

25冊くらいの、どうにかしたい本を無理やり本棚の上の方に積んでいるので、一旦の目標として誕生日までにこれらを読んだ上で捨てる・売るなどしたいところだ。

 

その片付けの一環で、使わないデジカメ用のSDカードが複数出てきた。とっくの昔に中身はクラウドにバックアップをしてあり、カードもフォーマット済み。しかし一応金(きん)を使っているものだからちっとくらいは価値があるんじゃないかと思ったりもして、大型家電量販店の回収ボックスなんかをググってみて、実際に向かってみたら「やっていない」と断られて処分に困っている。自治体のゴミ分別のパンフレットを読んでみてもSDカードなんて載っていなくてさぁ困った。

他者に見られて困るデータが入っているわけでもないので、可燃で捨てても良いのだろうか。

 

 

こうして家の不用品はほぼ捨て去り、残された不用品は書籍のみ。引っ越してから使い込んでボロボロになった洗濯かごやバスマットなどを一新すべく、今日は渋谷のIKEAに来てみた。買うべきものは事前に決めていたけれど、店内を順路に従って眺めていくと、どう考えてもいらねーのに欲しくなるものが多々ある。しかも値段が安い。何気なく手に取ってみて「本当にこれは必要か?」と自分に問いかけて、結局余計なものは一切買わずに済んだ。

 

昼前にカレーを半量ほど食べただけだったので、店の出口付近でホットドッグとハッシュドポテトをいただく。500円を切るのが驚きだ。

 

自宅に帰ってもつまらないので、気分転換にそのまま原宿のドトール本店に来てブログを書いている。まだ東京ポイントの残りがあったことを思い出し、モンブランとコーヒーのセットを頂きながら幸せを噛み締める。やっぱりスタバよりもドトールの方がテーブルも椅子も良い。コーヒーも値段相応に美味いし、喫煙もできるからだ。安いし何時間もいられるのは有難いことです。とは言っても客層によって集中できる環境は段違いなので、僕は作業をするにしても行くドトールは5店舗ほどと限定している。

今日はトータルとして充実したお出かけだったなと振り返りながら思い、電車の混雑が緩和されてくる20時過ぎくらいになったら帰ろうと考えている。

 

じゃ、今回はこの辺で。

 

死にたいと嘆いていたら、おっさんが自宅にやってきた

早いもので、1月も半分が終わってしまった。

 

雑談

何気に年明け最初のブログである。とは言っても、新年の抱負や去年の振り返りみたいなことはしない。2026年は良い一年になりますように、と誰もが願うだろうけれど自分は初詣にも教会にも行っていない。そもそも願い事がこれと言って思いつかないのです。

 

不調、鬱、ブレインフォグに悩まされた昨年。今年はどうか。少しは文章が読めるようになっただろうか。相変わらず意欲を高めるための向精神薬を服用し続けているが、特段改善は見られないように感じる。

 

暇なので漠然と将来について考えていた。職歴なし、統失、生活保護など弱者要素しか持ち合わせていない自分だ。今後どうしようって、どうしようもないのが現実だ。今日も明日も明後日も調子が悪い。

 

前に暇ならばやりたいことで起業でもしてみるかと考えたことがあった。ええ、考えただけで終わりました。5月になれば36歳となり、とっくにステータスとしてもニートから中年無職になっていました。ニートならば「俺?ニートだから笑」と笑ってごまかせたものが、中年無職に変わっただけで非常にしんどいものになります。

 

憧れの仕事、なりたい自分などを実現させる、または追い求めるのが痛い年頃になってきます。若い頃にはこんな感情はありませんでした。

 

今回の長引く鬱も、単純に季節的なものなのか、それとも何か他に要因があるのか分かったもんじゃない。まぁ分かっても唐突に治るものでもないし。

 

どうにか年末年始の出費を切り抜け、保護費だけで生活をしていて気づいたことがある。

 

 

生きていて楽しいか?

生きていて楽しいか。何度でもいうが、電気ガス水道、そしてWi-Fiがあれば十分に生活に対して幸せが見出せる自分である。そして美味いコーヒーと十分な時間があれば文句なし。

 

幾ら鬱気味の自分でも、あまり自分が不幸だとは思っていない。働けなくても生きていける生活保護制度、そして友人に恵まれているからだ。健康ではないが、満たされている。

 

その一方で、内心何をしてもつまらないなぁと感じることが増えてきた。本も内容が同じようなものばかり、飯も大して味を感じない、動画・アニメ・漫画に興味を失う、恋愛・結婚なんかどうでもいいし疲れる と言った具合だ。

 

日常への刺激があまりにも薄いのかもしれない。そりゃそうだ、好きな時に寝て、テキトーに起きてコーヒーを飲んでぼーっとし、日が暮れたら酒を飲んで寝るだけの人生なのだから。

一番の問題は、憧れていた生活が叶ってしまったことだろうか。コーヒーを飲んでくつろげる余裕がある。これ以上に幸せなことはない。結構安っぽい夢である。しかしこれ以上何を望めば良いのか分からなくなり、一切の向上心がなくなってしまった。

 

大体の人が一度はやってみたいと思うことを、自分の人生でやってきてしまったのも理由だろう。歳をとって胃の能力が低下する以前に家系ラーメンや二郎を食っておいて良かったと感じる一方で、自分の現在の能力でそれらが食えなくなっても、特に悲しいとは感じなくなった。

 

他にもガキの頃から親父のコネで国内・海外旅行をしてきたのもあって、最早行きたいところもほとんど思い浮かばない。第一、パスポートの取得や旅行手続きの手配なんかを考えるのが途方もなく面倒臭い。

 

人生における楽しみの先取りのことを、社会学で「人生縮小化」と習った記憶があるが、まさにそれで、今の自分の生活も年金暮らしをする老後の余生と本質的にはなんら変わりがない。

あとは死ぬのを待つだけ。そこに楽しさを見出せたならば、大したものだ。まだ工夫の余地はあるのかもしれないが。

 

だから生きている理由も死ぬ理由も特にないのである。

たまたま自分の生まれた国で生活保護制度があり、それで生きていけている。まぁ制度が打ち切られたり、無くなったりしたら改めてどうすべきか考えるか、死ぬかもしれない。

今が楽しくなくて惰性で生きているものの、死に急ぐ必要もないかなぁとは思う。どのみち真っ当に働けていたとしても45歳くらいまで生きれば十分だと思っていた。

まだ本当の意味での絶望もしくは希望や幸福を目撃していないから、なんとなく生きている感じがしている。この辺の説明が自分でも上手く出来ないんだよな。

 

真面目そうな割には、どうにでもなれと諦めが強く、弱者が捲土重来を企てるような気力もとっくに尽きている。今更人様や社会の役に立てる人材になろうとは微塵も思えず、ただただ己の生まれた不遇の悪さを嘆くばかりだ。

 

親戚にはそこそこ優れた人が多く、そんな奴らに「頑張れよ!」と言われても頑張れるわけがない。いや、正直自分は頑張っていた方だと思うよ。それでも常人がちょっとその気になればすぐ負けるんだ。やってられるかよ。

 

教会でも己のゴミ具合が顕著で、劣等感でいっぱいになるから行く気が失せてしまった。全知全能の神が私たちにも役割を授けてくださったとか、教えを説いていた記憶がある。健常者ならば「うん、ありがたいことだ。感謝しよう」と思えるのかもしれないが、脳に障害がある自分に意義があるなんて全く肯定できない。人は生まれながらに賜物があると言われても、ろくな取り柄もないし、正直悪いこと全くしていないし清く生きて祈っているんだから統失の一つくらい治してみろよと訴えたい。あまりにも病気に人生を狂わされてきた。

 

そもそも本気で死にたい!と思っていたのに、そこを向精神薬で「回復」というポジティブな意味合いで使われれる変化が現れたことによって、あまり死にたくない、生きたい、充実した人生を過ごしたい、バリバリ働いて社会の役に立ちたい! と思えるように変化していくことは自然なことなのかが自分には分からない。

 

偉そうなことを言っていても所詮薬がなければ感覚刺激に影響を受けまくって何もできなくなる人間である。医者的には人の命を救った、良いことをしたことになるのだろうが、当人としては生きていたくないのに、その判断を曖昧にぼかされただけに過ぎない。

 

もう薬を止めることも出来なくなったし、多分寛解するまで永遠に飲み続けるのだろう。そして歪み続ける精神。何が本当の自分なのかさえ分からない。欲が皆無で四六時中死ぬことばかり考えているのが本来の自分だとしたら、今の自分は薬でいい方向へと矯正されポジティブになるよう軌道修正されたようなものである。

 

健全だとさえ言える。でもこれは本来の私なのだろうか。

 

今も意欲を出すための向精神薬を服用している。果たして欲望に溢れるようになった自分は「自分らしい」と言えるのだろうか。落ち着かせる作用も含まれているので、現状に対して良くも悪くも全く危機感を覚えない。

 

 

 

ってなわけで、

 

アクティブログ(活動記録)

晦日にすき焼きを食べて年を越す。予想通りつまらなかった。

 

さて、1月8日から20日間、北海道の友人が東京に遊びに来ている。これは嬉しいことではある一方で、そのうち8割くらいは我が家に滞在する予定となっている。

 

初めは行儀良くしていても、徐々に粗が目立つなぁなどの感想はつまらないのでやめておこう。愚痴や文句だけで8000字書ける自信があるが、誰も得をしない。僕もいい加減大人。

楽しく行こうぜ٩( ᐛ )و

 

このブログを書いている時点で東京旅行8日目。現在彼は別の友人宅に泊まっている。だからこうして暇なのでブログを書いているわけだ。

 

何があったかを簡潔に書くと、いく先々でラーメンや中華を食べ、たった4日で3kg近く太り、おまけに狭いスペースで寝ることになった上にイビキで不眠が蓄積し、軽度の風邪をこじらせた。

 

それでも僕は彼を赦す。

 

行動を共にしたのは、銭湯や博物館などが中心。改めて東京の良さが発見できたかもしれない。地元民ながらに知らない店などもあった。今後の予定も見てみると、ずっと食事がラーメンか中華なので限界効用が逓減しまくって激萎えしているが、わざわざ遠くから来てくれた人に対して「もっとヘルシーなものを食べようよ」と提案をするのも憚られる。

 

穏便に20日間を過ごしてもらい、最後に「東京はサイコーだったぜ、じゃあな」と別れを告げるまで、自分の肉体が持つのか少し怪しいところがある。

 

そして今日は別行動日で、また違う友人の誕生日会に誘われている。ホルモン屋で開催するらしいのだが、いくらかかるのか分からなくて不安しかない。一応一ヶ月に使えるお金の上限を設けているからだ。まだ約束の時間にまでは余裕があり、途中でプレゼントを買ったりするつもりだが、今月は出費がヤバい。

 

もしかしたら今後も友人がラーメンを食っている最中、自分だけ別行動で近場のドトールでアイスコーヒーを注文して時間を潰すことになるかもしれん。

 

じゃ、今回はこの辺で。

 

 

給料の10%を喜んで他人に差し出すことができますか?

やっぱりぼーっとしているのが一番楽しいのだと感じる。

 

雑談

友人と話す時には、流石に死にたいとは感じない。ただ物凄く脳のメモリを消費するので、会話の「間」を取るため、そしてメモリの解放を目的としていつしか喫煙を欲するようになってしまった。

 

今年の夏くらいに一時的に禁煙していたのだが、イキって10月の飲み会で喫煙者相手に合わせるためにタバコを買った辺りから禁煙はあっさりと破れた。

元々バカで、大したことに頭を使っていない。いや、頭がおかしくなるまで考え抜いたりすることもあるけれど、そんな名案も出てこない時点で高が知れている脳なのだ。

 

それでも喫煙があると安らぐ。生活保護の分際でタバコを吸うなんて良い身分だなと思われても仕方がないが、僕から言わせれば何でも物価が高騰した現在、ちょっとしたグミやチョコのパッケージを買う方が逆に高いとさえ感じている。僕はお菓子は滅多に食べない。

 

それでもタバコは世界三大嗜好品の一つだからなのか、やはり吸っていると「金がねぇ、働かねぇ身分のくせに生意気だな」となるのも仕方がないと割り切るしかないのだろうか。断言するが、絶対に摂取する頻度で考えれば菓子の方が値段が高い。

 

 

話を戻すが、僕には色んな友人がいる。それでも傾向としてはロジカルに話す人が多いなと感じている。そして彼らは結論ではメタな発言をする。

 

このメタな視点というのを僕はほとんど持ち合わせておらず、例えば友人と同時にニュースを見ていても自分はせいぜい要点しか言えないのに対して、友人達はこれって要するに〇〇じゃんか と、つまり得た情報から何が言えるかがしっかりと言語化できているから脱帽するのである。

 

こうなると僕は「ああ、そうだよね」としか言えず、見事に出されたオチに対して一分も自分の意見を挟む余地がないのだ。僕はせいぜいSNSTwitterしかやらないのだが、やっぱり引用リツイートしている人たちもこれが出来ていて、ブログでも多くの人が閲覧しているようなところでは皆このメタの視点を例外なく持ち合わせている。

 

具体、抽象これらが使いこなせているとでも言えば良いのだろうか。「ああ、確かに」と納得した時点で僕が脳内でごちゃごちゃと考えていたことは澄み渡った快晴のように視界が開けていくのを感じるのだが、本当にごく稀に自分でも「鋭い発言」が出せる時があって、その時は我ながら「お、今日は冴えているな。自分頭いいかも!」なんて嬉しく思うことがある。

 

こういう他人の意見が聞ける、自分がもしかしたら冴えた発言が出来るかもしれない(打率は低いが)というのがあるから、僕はなるべく友人からの遊びの誘いにはノリノリで出向く。

 

 

 

話は変わって、あまり僕のブログでは自分の嫌いなことは書かないようにしてきた。理由としては、いちいち「著者はこれが嫌いなんだな」と覚えてもらうことが烏滸がましいと感じているからだ。

何かをして欲しいならば、まず自分が率先して相手にしてあげるべきである。

 

結構周りには配慮するように気を遣ってきたつもりではあるが、大前提として場の調和を乱す奴が大嫌いだ。面白いことをしようとして滑るのとは訳が違う。そういうのは頑張っているなと感じる。

 

例えば大人数で友人の家でパーティをするという場面で、なぜかいつでもどこでも出来るスマホのゲームをしていたりする奴。その家の環境でないとハイスコアが叩き出せないならば、まだ分かるがこういう奴は二度と遊びに誘わない。

 

他にも自宅で餃子とビールの会をやるから「来れる人は」来てね!と書いたのに、何故か餃子が苦手なのに来るとか、ビールが主旨なのに変なチューハイを求める奴だ。僕も割と寛容なので、仕方なくソイツごときのためにピザを用意したり、大して美味くもない変な果実の味のチューハイを買いに行くことになった。

こういう奴は二度と遊びに誘わない。

 

 

なんというか、長年飲食店や接客業をやりすぎたせいなのか、他人の満足度を伺うような性格になってしまったなぁと感じる。店では下手なことをすればクレームが来るか、陰湿な奴だとGoogleマップのレビューに「コイツはクソ」とまで書かれる始末だ。

僕も友人を遊びに誘う際にいちいち人の顔色を伺うようになってしまった。一般的には「優しい人」として僕の評価はつけられているが、多分誰か一人に説教でもかまそうものならば、どこかで「アイツの性格マジ終わっているよ」なんてアリもしない噂まで飛び交うことになるだろう。

 

それに加えて多様性というワガママと大差ないカス概念が世間に根付いてきた。アイツは大人数が苦手だから、今回の参加者はせいぜい5人に抑えないとな(本当はもっと人を呼びたいのに)。確かあの人はこのアレルギーがあったな。騒がしい店は聴覚過敏の友人が困るから、なるべく個室の店がいいかもしれない。

こんな個人個人のパラメータをいちいち把握して尊重しているのである。そこまでして全員が納得して満足のいく状況を作り上げていって会の場を開くぞ!という直前になってドタキャンとか、ひでぇ奴だと当日の集合時刻になっても連絡も既読もつかない奴すらいる。本当にふざけていると思うよ。

 

たかが飲み会に対して真面目になりすぎなのかもしれないが、せめて自分の提供する場では楽しんでいってほしい、そのためならばこちらが赤字になろうとも構わない。それが自分なりのおもてなしだと認識している。いや、正直もう幹事には疲れますわ。

 

 

 

一応教会に1年以上通って、赦すことを覚えたつもりだが、それでも当日になって連絡すらつかない奴には1000回悔い改めようが、赦しきれねぇよ。

 

こうして一人で苛立っていて、「まぁ相手も仕事か何かの都合で忙しかったんだろう」とか色々割り切っている内にとうとう爆発した怒りの矛先をどこにも向けられず体調をおかしくして、しまいにゃ頭が悪くなって文章が読めなくなってしまった。

 

 

それからの自分は虚無的で、ちょっと前まで幸福の頂点にいたとすら思っていたのに一転して不幸で毎日死にたい気分でいっぱいである。何度でも言うが、結局メンタルに余裕がないと何も出来ない。遊び、勉強、筋トレ、家事、風呂に入る、祈りを捧げる etc... 

 

あれだけ毎日聖書の読解を日課にしていて、如何に自分が満たされていて幸福であるかの感謝を込めた祈りをする時間を設けていたのに、今はどうでも良くなって一日中何もしていない。

 

結構自分は熱しやすく冷めやすいタイプなのだと思う。一応こんな無職でも神様に支(つか)える仕事の末端を担っており、せめてその誠意を示すために初任給で5,000円以上もする聖書を買ったのに今はほとんど開いていない。それどころか、牧師から聖書の箇所を示されて、簡潔にいうと収入の10%を神に捧げなさいと教わってから、金の問題で丸一日悩んだこともあった。

 

幾ら生活保護の保護費だけでも余裕があるとは言え、保護費の10%を教会に差し出すのは間違っている気がしたからだ。これは根本的には国民の皆様が汗水垂らして納税したお金である。こんなことをSNSに書こうものならば炎上するだろう。

 

せめて今の不定期のバイト代の給料から10%を差し出すのが妥当で、今の精一杯なんじゃないだろうかと妥協案を出した。というか、こんなくだらないことに頭を使いたくないし、悩みたくもなかった。それでも保護費から出すのは絶対に間違っていると思う。

 

元々『バビロン大富豪の教え』というお金の黄金律を教えてくれるKindle unlimitedの漫画にも「収入の十分の一は自分のために蓄えよ」という教えがあって、他のファイナンシャルプランナーが書いた貯蓄の本なんかにも似たような教えがあったから、それをなるべく守ってきたつもりだったが、流石に十分の一を差し出すのは何か間違っている気がしていて未だに納得していない。

 

なるほど、教会はこうやって運営が成り立っているのかと少し納得したが、正直なことを言うといつも「さぁ、ここから頑張ろう!!」と思い立つと必ず、変な手を煩わせる知らせや体調不良などが襲いかかってきて、折角出した意気込みを運命が全力で阻止しにかかってくるので、信仰心がめちゃくちゃ薄れてきている。

 

キリスト教を信仰すれば「僕には神様がいつもついている!」とマリオカートでスターを取った時のような無敵状態が一定時間続くのかと当初は錯覚していたのだが、ガキの頃から頑張ろうと奮起するたびにやる気を削ぎにくるアクシデントに見舞われているのが一向に改善しないので、もう諦めつつある。

 

今回も毎日聖書の勉強をしているから、加えて日課となる自分のための勉強をしようと奮起したところで、突然頭が悪くなってしまった。

まだ聖書の全文に目を通しているわけではないが、よく言われる「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という格言みたいなものが僕は凄く大嫌いで、何故かって壁にぶち当たるたびに挫折しかしていないからだ。ここまで人生が上手くいかないと本来ならばとっくに絶望して自殺していてもおかしくないのだが、向精神薬のせいで(おかげで)、ある意味「逆に生かされている」。

 

現在、意欲の回復を図る向精神薬を最大量服薬している。ところが便秘になるだけで、何も効果が現れない。相変わらず大概のことには興味がないし、無気力だ。毎日何も生産性がなく、気がつけば日が暮れているの繰り返し。寝起きにタバコを吸ってゲロを吐いている時が1日で最も生きている実感が得られ、あとは何をしていても疲れるから、椅子に座ってコーヒーでも飲みながらぼーっと空想に耽っている。

 

日曜も教会の礼拝があったのだが、行くと周りとの劣等感で死にたくなるから行けなかった。別に自分が無職だという理由で見下してくる性格の擦れた奴はいないのだけれど、今は統失の妄想がひどいのだ。

 

どう言うわけか、現在、文章が読めない割には書くことだけは出来る。前にも話した通り、僕は発信に興味を失っているのだが、一人でメモ帳に日記じみたことを書いていても面白くないので、少しでも「こんな奴がいるんだな」と知ってもらえたら幸いだなと言う狙いでブログを書いている。

 

ここまで鬱で、まさかゲームすら面白くないとなってくると本当に生きていて何が楽しいのか分からなくなってくる。元より大の動画嫌いで、これだけ時間が有り余っていて暇な僕でも映画を見るのは苦手だし、YouTubeですら年間の再生時間は多分10時間以下だと思う。

 

逆に苦も無く延々と出来ることとしては、spotifyで音楽をひたすら垂れ流すことだ。その再生時間は「これを資格勉強などに役立てたらもっと有意義なのに・・・」と感じるくらい膨大な時間となる。毎年12月に出るストーリーズの統計に寄ると、世界上位1%ユーザーになるらしい。なんなら、spotifyの再生時間による二酸化炭素排出量を計算したこともあるのだが、自分の体重を優に超えていた。

 

別に音楽が好きなわけではなく、目的としては単純に日常のテンションを上げるためだけのものだ。それとノイキャンヘッドホンによる救急車のサイレンを消すのもある。

一方で音楽の解像度は著しく低く、楽譜も読めなければ楽器の一つも演奏できやしない。歌も下手だ。リスニング力が鍛えられるかとちょっと期待したこともあったが、その真逆で聞き流す能力が培われたような気がする。何回も聞いている曲だろうと、未だに何を言っているのか聞き取れないことはよくある。

 

結局、文章が読めなくなっちゃいましたー泣 と嘆いているよりも、まだ自分が面白いと感じられることをやるべきであって、それがたまたま自分の場合は音楽を聴きながらブログを書くことだったわけだ。

 

それでも今まで平然とできていたことがある日唐突に出来なくなると言うのは、結構堪える物がある。そもそも聖書の読解自体が「楽しいしハッピーになるけれど、どこか無理をしているもの」だったのかもしれない可能性は否めない。もしかしたらこうして書いているブログも今は楽しく感じられても、地味に体力や集中力を削る負荷のかかる行為なのかもしれない。

 

まだ鬱のフェーズとしては、もっと酷くなると「人の言うことがどんなに内容が優しくても理解に苦しむ」があり、幸い今はそこまでは達していない。何も苦労をしていないのに、どうして病状が悪化するのか理由を知りたいものだが、多分一人でなんでも寛容に抱え込みすぎたのが原因だと察している。

 

多様性に配慮した飲み会の幹事は疲れるし当日になっても連絡すらつかない、教会の牧師からあれもこれもとノルマをやりましょうと誘われたのもある。他にも1月から自宅に長期滞在する友人をもてなす準備、親から早く就職に向けて動き出せと言われたりなど、あれこれ起こることを真剣に考えていたら、ある点を境に急にどうでも良くなり、真面目だった僕は何も出来なくなってしまった。

 

こんなことで躓いているのを情けなく思う一方で、こんなことすら満足にこなせないから障害者なんだと割り切っているところもある。とてもじゃないが、親が望むホワイトカラーの正社員になるなんて、年齢的にも能力的にも不可能で、僕はもう世の中の大概のことに対して諦めている。

 

元々頑張っていないが、今はもっと頑張っては行けない時期なのだろう。寝たい時に寝て、とりあえず栄養のある食事をし、あとはコーヒーを淹れて、音楽を垂れ流してダラダラしているだけである。

 

文章は読めなくても、脳は暇だから何かしら考え事をしている。不思議と悩むことは減ったかなと感じるのは良いとして、まぁダラダラしている内にある時「何かしなくちゃ!」と焦りからやる気が出てきたら良いなぁと自分事なのに他人任せみたいなところがある。

 

 

ってなわけで、

 

アクティブログ(活動記録)

不定期で仕事をしているとは言ったが、大体週1くらいの頻度である。3時間半の勤務で日給は5000円。まぁ一ヶ月が4週間あるとすれば、月収2万円だ。

 

ちなみに生活保護だと一ヶ月に稼いでいい上限はおおよそ15,000円で、つまり5000円余分に稼いだことになってしまう。ついさっき口座を確認してみたらしっかり2万円と交通費が振り込まれていて、おそらく次回辺りの保護費の支給日にマイナス5000円された額が支給されることになるのだろう。

 

稼ぎの25%が分取られるのである。国に食わせてもらっている身分だし、5000円くらいならば痛くも痒くもないわと割り切ったつもりではいるが、要するに生活保護は豊かになってはいけないんだなと察した。

 

物価高とは言えど保護費は上がらない。地味にその辺のバイトだって最低賃金が上昇しているので、ほんの短時間働いてもそこそこの日給にはなる。そうなると「さぁ、これから少しずつ働いて仕事に慣れて社会復帰をしよう」と思っても、仮に1日8時間の労働をしようものならば2日働いたらあっという間に上限に達してしまう。

 

真っ当に働いて稼ぎが保護費以下ならば、給料との差分を支給してくれるようにはなるけれど、正直なところ働くモチベーションにはつながりにくいと感じる。

生活保護ベーシックインカムではないから、結局どんなに頑張って働いたところで保護費+15000円までしかお金を確保できない。そして収入が保護費を上回れば生活保護は打ち切りとなり、世間的には「脱却できた!」と言うことになるのだろう。

 

自分は特にこれといって欲もなく、今回の給料も貰って嬉しい反面使い道が全く思い浮かばない。来月の友人と遊ぶお金に充てるとかぐらいだろうか。正直こういうイベントでもないと、お金を使うことがほぼ無いため、ぶっちゃけて言えば今のバイトですら「やらなくても良いんじゃね?」とすら思っている。

 

 

牧師から仕事を紹介してもらった。まぁ御恩があると考えるならば、さっき述べた給料の10%を教会に献金するのが本来のあるべき姿なのかもしれない。

牧師は僕に仕事を紹介した。僕は賃金が増えた。教会も少し潤う。というwin-win-winの好循環のロジックっぽく見えるが、やはり自分が一番消耗しているように感じてしまう。

 

なんというか、聖書には読解する価値があると思う一方で、教会にはそれほど行く価値がないと感じている。礼拝が始まる時刻まで礼拝堂はザワザワとお喋りでうるせぇし、讃美歌も不必要にうるさい。講話が終わって、決められたグループで食事をしながら1週間の出来事の報告や今日学んだこと、これからの祈りなどをそれぞれするのだが、やはり周囲がうるさく、特に統失にとっては声を聞き分けるのが困難なのである。それで聞き分けるために高い集中力が要求され、凄く疲れてしまうわけだ。

 

ぶっちゃけて言えば講話もわざわざ教会へ向かわなくても自宅の布団からYouTubeで視聴できて、リアルタイム配信されているので、それで足りるわけだ。

日頃聖書を読み進め、わからないところは牧師にLINEで質問できるし、なんなら交通費が意外とかかる。牛丼一杯分くらいか。

合理的に考えりゃ教会に行かずに自宅でオンライン学習めいたことも可能なわけで、浮いた交通費の分でコーヒー豆でも買った方が遥かに快適である。

 

第一、いくら礼拝が日曜だと言っても地下鉄は混雑するし空気が悪く、それだけで具合が悪くなるのである。結構しんどい思いをして教会まで通っている。もっと言えば僕を教会に誘った友人が来ないし連絡も取れない時点で、ムッとするし良い加減な奴だなと失望してしまうわけだ。

 

神様は赦してくださるとのことらしいが、目の前の友人を蔑ろにできるその神経が理解できない。礼拝が終わって帰る頃には入れ墨の入った教会員が路上喫煙をしている有様だし、正直こんな奴らと同類項で括られるなんてたまったもんじゃない。

 

僕だって喫煙者だがマナーくらいは守る。自分だって遅刻をすることもあるので、遅れるなとは怒ったりしないが、遅れるならば連絡くらい入れるのが筋合いだろう。そういうことが重なって「赦すんだ、赦すんだ・・・」と自分に言い聞かせている内にストレスが爆発した。

 

今日は給料日だ。しかし残念ながらその内の10%を差し出そうと言う気にはなれない。

 

じゃ、今回はこの辺で。

 

疲れた。文章が読めなくなってしまった。

ただただ、どうでもいい。

 

雑談

25日間くらいは最低限、聖書の読解だけは継続できていた。ところが何かをきっかけに、ある日突然頭が悪くなり、文章が読めなくなってしまった。

 

一番病んでいた時期は人の言っていることがマジで外国語かってくらいに理解不能、こちらの意思を伝達することも叶わないという状況だったので、それに比べれば今の段階はまだ浅い方だとは言える。

 

そうは言っても、自分で書いた文章以外全く脳が受け付けなくなってしまった。体感的にIQが30くらい低下した気分であり、Twitterは愚か、他人からのLINEですらも読むのが非常にしんどい。

 

金のない暇人に残された最後のフロンティアが読書だと思っているのだが、本の表紙を見るだけで脳が拒絶反応を起こす。無理やり読んでも何が言いたいのかさっぱり伝わってこない。あー、こりゃダメだね。休むべきだと判断した。

 

しかし「休む」って、今の自分は不定期で動画撮影のバイトに入る程度の無職である。しかも年内の仕事は全て終えた。十分に休養は取れるのである。もっと言えば、ほぼ2年ろくに働いていないのだから「いい加減回復しただろ、そろそろ働け」と蹴りを入れられてもおかしくない時期だ。一体いつになったら社会復帰が出来るのだろうか。

 

たかがメールで20行程度の聖書の抜粋箇所を要約して、要点や感謝することを書き出し、最後に祈るだけのことである。それが急に出来なくなった。まぁやらなくても別に怒られたり、唐突に不幸になるわけでもない。このQTというノルマがこなせると、サウナでいうところの「ととのった」状態にアプローチ出来、幸福度が増して「今日も神様が自分にはついているぞ」という気分で1日がスタート出来る。

 

言うまでもなく、幾らサウナがととのう周知の事実があったとしても、流石に風邪をひいている時にまでサウナに行くバカはいないはずだ。僕の場合は体調はそこそこ、でも頭が超絶悪くなっている。それなのに無理してととのおうとしても、くたびれて時間ばかりが経過するだけで何一つハッピーになれないのは察していた。

 

こんな慢性的な脳の疲労が激鬱状態にまで落ち込み、文章も読めなくなった場合どうするか。頑張らないのが一番である。そこで、ちょっと奮発してスマブラを買ってみた。他に興味のあるゲームもないし、新しく操作を覚えるのもだるいので、シンプルで爽快感があるゲームがやりたかったのだ。

 

小学生の頃に64のそれはやったことがあったが、大人になった今、改めてやってみても「画面がごちゃごちゃしていてビジュアル的にうるせぇなぁ」と言う感想しか出てこず、況してや使えるキャラクターが初期状態では限られているとは言えど最終的には70体を超えるとなると、どのキャラを使うかの選択をするだけで迷って疲れる。

 

自分よりも頭のいい人達が創意工夫を凝らして面白いゲームを提供しているはずなんだが、どうにも面白くない。なんとか14体くらいまでキャラを出し、総プレイ時間が7時間を回った程度でしんどくなって、結局やらなくなった。

 

何度かこのブログでは言及しているが、僕は性格的に他人が提供する娯楽が一切受け入れられない体質なのだ。だからテーマパークに行っても一人だけ白けているし、動画コンテンツも全く見ない。近頃に至ってはTwitterですら同じような内容の投稿ばかりで3分も見ていられないし、実を言うとブログも含めてあらゆる発信に興味を失っている。

 

 

その気になれば今でもブログは3時間あれば5,000字くらいは書けるのだが、根本的に娯楽も発信も、メンタルの余裕がないと出来ないことなのではないだろうかと感じている。僕に推しはいないが、推し活だって体力があるからこそ出来ることだろう。弱っているところを「まだまだこれからだぁ!」と奮起出来るか、大人しく寝込むか、そんなのが問われている気がするが、あいにく僕は頑張れない方の人間なのだ。

それこそ聖書の読解だって文章が読めなくても熱意があれば出来なくはないが、今まで苦も無く出来ていたことが物凄く苦痛になると感じる時点で、明らかに無理をしていることになる。

 

困ったことに今は何をしても面白くなくて、前回の記事を更新してからの空白期間で「最近勉強していること」と言う旨の記事を一本、下書きまで作ったのに、あまりにも客観的に読んでみると面白くなくてボツにしかけている。

 

別にポテンシャルがカスなのだから、一生懸命勉強しても大した成果なんか得られないのは分かりきっているので、開き直って遊ぼうと思っても何一つ楽しくない。今はちょっとググれば何かしらの漫画が無料で読めたりもするが、やはり受け入れられず、気分転換に散歩に行くにしてもまずは風呂に入らなければいけないと思った時点で面倒になってしまう。

 

基本的に予定がなければ3日に1回くらいしか風呂に入らない僕だ。お家でコーヒーを飲みながらダラダラ空想に耽っている方が楽しい。音楽だけは常に聴いているけれど、これは楽しいからじゃなくて幻聴や救急車のサイレンをかき消すのが理由としては大きい。

 

もう知能が低下するとなす術を無くして、あとは寝るしかないのである。16時間くらい寝た日もあった。起きて、テキトーに飯食って、また寝る。薬さえ飲んでいればいい。

 

それでも一度頭が悪くなると、回復するのに短く見積もっても1ヶ月はかかるだろう。なんか今年はこの繰り返しばかりしている気がする。幾ら意欲の回復する薬を服用しても、便秘が悪化するだけで、ちっともやる気なんか出やしない。元来の僕が無気力な人間だから、それを薬で矯正するのも、どこか無理が生じているんじゃないかと感じている。

 

本来元気だったら、毎朝QTをやって、7冊の本を並行しながら毎日1トピックずつ読みこなすくらいは最低でもやりたかった。

それに加えて週に1回は図書館にも行きたかったし、特に意味もなく自宅からスカイツリーくらいまで往復の散歩をしたかった。

 

 

一体どうしてこんなにも脳が麻痺してしまうのか。急にやることが増えたからだろうか。常人が労働をするよりも遥かにレベルが低いことしかやっていないのに、何故疲れるのか。疲れて疲れて仕方がないのだ。

 

たまに誰かと話している時には一時的に元気になるが、「さよなら」と解散した直後に虚しさと疲れが込み上げてくる。自分は一人でいる方が好きなはずなのに、幸い友人には恵まれていて、近頃は毎週誰かの家にお邪魔したりと充実している。遊んでいる間は元気だ。しかしそれも、もしかしたら本来は鬱なのに無理をして外出をしていることの言い換えなのかもしれない。

 

確かに振り返ってみると、友人のために病院に付き添ったり、忘年会(自宅での餃子パーティー)の幹事をやったりと、慣れないことをした。求めていないのにしっかりとお礼までしてもらったのを嬉しく思ったりしたが、楽しかった反面疲れることに変わりはない。

 

体力がないからメンタルにも余裕がなくなるのかなぁとも反省をしてみた。いや、それともメンタルに余裕があるから体力の向上に努めることが出来るのでは?と逆も考えてみる。

卵と鶏どっちが先かみたいな話になってくるが、もうちょっと要因を探ってみると「まともな飯を食っている時は体調がいい」ことを思い出した。

 

近頃これと言って食いたいものがなくて、基本的に食事はご飯と納豆とキムチだけで済ませている。納豆の大豆が一応植物性タンパク質があるとか言っても、どうにも動物性タンパク質が欠けていると活力が出ないようには感じる。特に栄養失調で死ぬことはないと思うが、活力が落ちるところまで落ちると、調理をする気も起こらなくなり何もかもがどうでも良くなる。

そうなると悪循環に落ちるのは目に見えているわけで、一旦結論を出すと鬱になった理由は肉を食わなくなったからなのかもしれない。

 

きのこと肉を入れて煮込んだカレーでも作るか。

 

 

ってなわけで、

 

アクティブログ(活動記録)

これだけ鬱でも、現在の住居に引っ越してから毎日どの時間に何をしていたかの記録だけは続けている。まぁ近況報告を兼ねてダラダラと最近の出来事を書いてもいいのだが、あまり面白くないと判断したので、今やろうとしていることを書いていこうと思う。

 

そもそもブログタイトル、これでいいの??

前著『三原氏物語』は不定期更新ながらも10年以上続いた。統失目線でのネガティブな日記は、誰も幸せにならないと判断して、ある出来事を境に移転をした。

 

時代はクラウドだーーーーーーー!!

ドラッグストアの店員をあっさりと失業して、何かやりてーことないかなぁと考えを巡らせ、テレワークのできる働き方ならば僕でも無理なく出来るんじゃないだろうか。それに接客業だとどう頑張っても1対1のやり取りを延々と繰り返すだけ。プログラミングができて、システムが組めれば僕の努力が多くの人を幸せに出来るかもしれない・・・!!

 

そんな浅はかな思いつきでIT業界の転職を試みたものの、結局取れた資格は誰でも取れそうなレベルのものが3つだけ。職業訓練校に通ってAWSのスケールのデカさと壮大なビジョンに見入り、クラウドエンジニアになりたいなぁと漠然と思うようになった。今のメインキャラクターの喰人(Cloud)はそれにちなんでいる。

 

イキってAWSレンタルサーバー機能であるライトセイルでwordpress版『黙々クラウド』を立てる。しかしサーバーのセキュリティ面を怠り、恐らくDDoS攻撃に遭って3万円もの高額請求が来て、本気で首を吊ろうかと思った。

 

そこに至るまでにも、25社くらいは面接を受けた。書類選考で落ちたり、1次すら通過出来なかったり。1社だけ運良くRFIDの会社の役員面接にまで漕ぎ着けたが「君正社員歴がないね」の一言で玉砕。本気で首を吊ろうかと思った。

 

総括すると、自分が雇われない理由はたくさんあって

  • 正社員歴がない
  • 幾ら未経験とは言えど、35歳は遅すぎる
  • 雑魚資格しかない
  • 面接レベルのコミュニケーション能力の欠如
  • 普通の人からすると遅すぎる大学の入学と卒業、そして中退歴

主にこれらが採用担当者から受けない理由だと悟った。

職業訓練校の友達の中には、自分の経歴を詐称して内定を得た人もいたが、自分は嘘をつく勇気がなかったし、そんな発想すらなかった。

 

こうしていよいよ失業保険も期限が切れ、役所に泣きついて生活保護を受給することになった。申請が降りなかったら、それこそ鬱が最もひどかった頃に散々脳内でシミュレーションした誰にも見つからない方法で失踪する手段を取る覚悟だった。

 

一応今年の5月までは就職する気でいたが、日に日に病むし、胃も痛い。連日嘔吐。とても働ける状態じゃないと判断し、勤勉さも消失して今は無気力状態が長期に渡ってつづいている。

 

もとより物欲や性欲がほとんど無い事などもあり、保護費だけで十分幸せに生きていけることに気づく。そうは言っても異様なまでの無関心・無気力、時折の嘔吐、加えて現在はブレインフォグを抱えている。まぁ病気は働かないことに対するペナルティみたいなものだと割り切ることにした。(一応不定期のバイトはしているんだけれどなぁ)

 

職業訓練校を修了したのも去年の10月末だし、ここまで心身が衰弱するとITどころか他のどんな就職も困難だろうと思われる。未だにアホな母親は僕がホワイトカラーの仕事に就くことを望んでいるみたいだが、もう諦めてくれ。お前の息子は普通の人間にすらなれなかった。

 

長くなったが、このブログも最早「無職からITエンジニア就職」へのテーマで運営していない。何が最も近いかと言うと、生活保護日記だろうか。幸せそうなことを書けば即炎上しそうなテーマである。

 

ただ、この雲(クラウド)を頭に乗せたレゴ人形のようなキャラにどうも愛着が湧かないのである。自分で作っておきながら。

まぁこのブログを畳んで、新しく作り直すつもりもない。けれどある日突然ブログのタイトルが変わることは視野に入れている。

 

もっと言えば、こんな貧困生活でもある意味では「将来の夢」みたいなものが叶ってしまっており、そこから先のビジョンが全く見えないのである。その夢とは、自宅でコーヒーを飲みながらくつろぎたい というちっぽけなもので、これが出来ている時点で個人的には満足に幸せなのだ。お金があることに越したことはないが、これと言って欲しいものもなく、働かないと手に入らないもの(家や車、世帯を持つ)に微塵も憧れがないため、仮にバリバリ働けて稼げたとしても「こんなにお金あっても何に使えばいいのか分からない・・・」と、それはそれで悩む予感しかしていない。

 

なんだろうな、今の自分は年金暮らしのジジイと本質的には何も変わらない気がしている。もうほとんどやっていることは、死ぬのを待つだけみたいな状態だ。働けないし、向上心もなく、何をやっても大して面白くない。たまに友人と宅飲みなどをしていられれば満足。そういう人生なんだ。

 

 

こうやって油断するとすぐネガティブなことを書いてしまうのが悪いところだ。おひとり様として最大限に孤独を楽しんでいるつもりだけれど、通っている教会で最近毎月のように、出産、妊娠、結婚の報告を聞いている内に自分の中の価値基準がブレ始めている音がしている。

 

別に妊娠や出産なんて、僕からすれば「生物としてやることやってんなー」くらいにしか思えなくて、何がおめでたいのかちっとも理解出来ないのである。そんなに子作りって難しいのか?受精って確率低いの?

 

まぁ当人らが幸せなのは間違いない。別にそれでいいと思う。ただ、そう言う報告を聞き続けるに従って、こんな僕でも「いつか結婚して子供が欲しいなぁ」と思うようになったらヤバいわけだ。

 

今の生活というのは、孤独でも快適に暮らせるように100%の調和が取れている。だから万が一パートナーが出来て、二人暮らしをするとなるとこれまでの生活が全部失われるわけだよ。自分の部屋にあるものなんて、ほぼ全てと言って良いほどにどこに何があるか定位置に決まっていないとすげぇイライラするわけ。エントロピーの高い部屋が大嫌いなわけさ。

 

ところがその居住空間が些か乱される不快感よりも、パートナーを愛する気持ちの方が上回ったら、根本的に1から幸せを再定義し直さなければいけなくなるわけよ。すげぇ面倒クセェし疲れるじゃん。ちょっと前まで「自分はなんて幸せなんだろう」と思っていたけれど、ある日不意に友人達には皆恋人がいるのに、自分だけいないじゃん!って悟った瞬間に急に不幸になっちまったんだよ。

 

本当に自分と他人を比較しないというのは大事なことで、これを守っているからこそ自分なりの幸福が強固に作られるのに、周りが出産しました、恋人が出来ました、なんて話を聞いていると「あれ、みんなどうしちゃったの・・・?」と凄く周りから置いてけぼりにされた気分になる。

 

今でこそキリスト教を信仰している僕だが、実は大の教会嫌いでその理由は簡単、自分が一番惨めに感じるからなんだよね。だから教会のクリスマス会は断った。自分だけ無職で、金がなく(個人的には豊かだと思うが、やはり行くと軸がブレる)、皆は英語も出来る上に祝福されたような笑顔に満ちている。本当に自分は来ても良いのか不安になるよ。

 

今は活字が読めなくなったが、聖書は素晴らしい内容が書かれていると思っている。生涯を通じて学びたい気持ちは変わらない。でも矛盾するような言い方だが、教会には極力行きたくない。というか、日曜の礼拝に行きたくない。教会は立派な建築だし、平日の誰もいない日に牧師とマンツーマンで聖書の内容について理解を深める勉強会は好きだからだ。

 

そりゃ僕にパートナーがいないのも、要因としては真剣に恋人を探そうとしない僕の努力不足なところが大きいだろう。なんというか、そんなことに労力と時間を割くくらいならば、僕は一人でダラダラ空想に耽っている方が好きなのだ。それでも他人の幸せを見せられると、やはり価値基準は揺らぐ。

 

そういうのに対していちいち「自分は十分幸せじゃないか。電気ガス水道、wi-fiもある」と今あるものに如何に恵まれているかを再認識してなるべく平静を保つようにしているが、良い加減疲れてきた。

 

 

 

かなり長くなったが、普通に働くことも叶わなくなってしまい、この先どうなるのか分かったもんじゃない。文章が読めなくなった割には、案外今回の記事で6600字以上書けたことは驚きだ。全く、一生病気に苦しめられる運命なのだろうか。

 

じゃ、今回はこの辺で。

 

 

朝からBibleでととのうだけの話

発信に興味を失った。

 

近況報告

意欲が回復する向精神薬を服用している。飲み続けること、4ヶ月くらいか。めちゃくちゃ食欲と、何かをしたいという感情が芽生えた。

 

つい2週間前までは大して腹も減らず、1日2食生活で過ごしていて、体重も65kgを切るかなぁと言ったところまで減少してきたのに、無性に腹が減って67kgくらいにはリバウンドしている。そうは言っても特に食べたいものは無かったりする。何か食っていないと落ち着かない心境に近い。

 

ついでに意欲が少し出てきたのかもしれない。断言は出来ないが、「何かをしたいな」とは思う様になった。ところがその「何か」が未だに解らない。

以前から不定期でキリスト教会に通っているよとは書いてきたが、5週間体調不良だので行く事が叶わず、先々週からようやく教会に行く事が出来るようになったくらいには回復した。

 

10月に訳もわからず洗礼を受け、何かが変わった様な気がしただけで「効果あるのかこれ?」とずっと疑問だったのだが、向精神薬のお陰もあって回復傾向には向っている。気づけば嘔吐もほぼしなくなった。

 

意欲は出てきたような気がするが、Twitterを始めとしたSNSでの発信には興味がほとんどなくなり、ブログの更新通知以外には投稿を滅多にしなくなってしまった。純粋にSNSに飽きたのかもしれない。

 

 

先日、牧師が家庭訪問というか遊びに自宅まで来てくれて、一緒にコーヒーを飲んだり日課に対する取り組み方を教えてくれた後、自宅のお清め(正しい名称が解らない)までしてくれた。ガチで三原家の幸福を願ってお祈りをしてくれ、家にあるサタンめいたものにオリーブ油まで塗ってお祈りをしてくれたのである。

 

それっぽい効果が現れたのかは今でも分からないけれど、心なしかいつもより体調がいいなとは感じている。

今日は昨晩ワインを飲みすぎたせいと、気圧の影響で地味に頭が痛いが少しばかり本を読んだり、こうしてブログが書けていることに感謝だ。

 

教会員になると、毎朝4時に配信されるメールが届く。QT(quiet times),またはディボーションと呼ばれる聖書の読解を毎朝目が覚めて食事を摂ってから行うのだが、これをやると多少の瞑想効果があるのだろうか、サウナ並にととのうのである。

 

洗礼を受けた直後から受信フォルダにはQTメールが届いており、その内容は聖書の一部を抜粋した聖句が書かれて、続けて8つの課題を行うように書かれていた。牧師が家庭訪問をするまでは、この聖句を読んでも「キリストが〇〇した」と言った内容しか受け取ることができず、「だから何やねん??」という感じで黙読してゴミ箱行きだった。

 

改めて牧師が家庭訪問をし、一緒にQTをやってみましょうとやり方を教わると、その効果は段違いで、ただの有り難そうな字面が一変して神様が自分だけのメッセージを伝えてくれる様になる。捻くれていて小賢しいだけの自分でも、その聖書の抜粋をステップに従って読み解いていくだけで、神様からのメッセージが聞ける様になるのである。

 

スピリチュアルめいた話だが、これはやってみないと絶対に理解できない。人それぞれ受け取り方は違うので、特に正解とかもなく、家庭訪問以降毎日LINEでQTの内容を報告し合っているが、解釈も伝えられたメッセージも異なるのが面白い。

一応毎日継続しており、習慣になりつつある。

 

実はバイト先でも、仕事を教えてくれる先輩からディボーションはやったほうがいいよ、とアドバイスを貰っていて、その時はテキトーに「やってみます」と返事をしておいたが、実際にやり方を教わって取り組むと1日の充実度が圧倒的に変わるから驚きだ。

 

僕は昔から読解力がなく、要約だけならばなんとか出来ても、その書かれている文章から本質を見抜くことがとても苦手だったが、これは国語のトレーニングにもなるなと感じている。

 

側から見れば完全に宗教に染まりきって洗脳された奴かもしれないが、今まで自分になかった発想や心掛けが出てくるので、その効果は計り知れない。やっていない奴は損していると断言したいくらいに、体内からエネルギーが湧いてくるのを実感できるからだ。

 

とりあえず、ここ最近何かを勉強したいと連呼してきた結果、その中の一つとして「聖書を勉強している」という習慣は身についていきそうだ。教会の礼拝でも聖書の箇所を抜粋して現代風に説明してくれたりするので、なるべく体調がいい時には通いたいところだ。礼拝には意外にも多くの外国人が参加しており、僕は片言の英語で、相手は片言の日本語でコミュニケーションを取る。一応こんなのでも、英語が伝わるのは嬉しく感じるものだ。

 

 

 

さて、そろそろバイト先からの給料振り込みの日だ。これでも神様の教えを伝える役割を担う下っ端中の下っ端だ(そういうバイトなのである). 無職以来の初収入で、見込みでは1万円程度の稼ぎとなるはずだ。給料を握り締め、聖書を買いに行くことは決めている。お世話になっている牧師も、その教会に買いに行く日は聖書の読み方を教えてくれる予定になっているのが嬉しい。

 

職場では「給料が25日前後に振り込まれます」と説明していたが、結構いい加減なもんで、25日の16時を回っていても給料が振り込まれない。振込先の指定を間違えたかな?と心配になる始末だ。

 

残りのお金はこれまでお世話になった方達への恩返しに使うとして、そこから先をどうしていくかをずっと考えていたのは変わらずだ。

幾ら神様からの祝福が与えられたとしても、所詮無能は無能。35歳にして正社員歴もなく、統合失調症という精神障害持ちである事実は変えようがない。

開き直って一生を生活保護謳歌し、時折バイトに行くくらいがちょうどいいのだろうかとも悩んだが、どうにも性格が真面目すぎるせいで、自分自身がそれを許してくれない。

 

一応「健康ならばさっさと仕事を探せ」という福祉課の建前がある以上、いずれは働かなければならないのだろう。出来る限り外出する際は長距離を歩いて体力の向上に努めたりはしているが、とても現状では週5で働けそうにもない。

 

天気が良くて体調の良い日は極力図書館に出かけている。意外にも図書館には、仕事探しのパンフレットが充実していたり、そういった書籍も充実しているからだ。それでも「普通の人」になるのは随分とハードルが高く、金よりも休みが欲しいと豪語する僕はほとんどの企業が嫌い、雇ってくれないだろう。

 

だから苦肉の策で起業しちゃおうか、なんてアホみたいなことを考えており、馬鹿なりに頭を回らせてどうにか月に20万稼ぐ方法を模索していたりするわけだ。

手堅く職を得るならば、簿記の2級を取ったり、Excelの資格を取得すれば良いのかもしれないが、絶対に面白くないことは判明しているので、だったら儲からなくても良いから好きなことをやっていた方がマシじゃないかと自分なりに結論を出したのだ。

 

偶然にも図書館で副業リスト100図鑑なる一冊を見つけ、それを吟味しながら自分でも出来そうな仕事を探してみたりして、ライティングならば可能性はあるなと判断した。まぁ本気でそれをやっていくならば、今みたいな日記から何歩も飛躍したウケる文章を書く必要があり、大前提として国語力が要求されることになる。

 

今回は図書館で起業や副業に関する本を3冊ほど借りてきて、暇な時に読み進めているわけだが、「大丈夫、こんな私にも出来たのだから、あなたにもきっと出来るはず!」と書かれているのを見て「だから不安なのよ・・・」と感じるばかりである。

幾ら神様が傍にいたとしても、僕まで全知全能になれるわけではないのだ。確かに勇気はもらった、意欲は出てきた、何でも出来そうな気さえしてくる!不可能なんてない!!と励まされても、客観的に見れば無職が宗教で勇気づけられておかしなことをしようとしている、と見られても仕方がないわけだ。

 

結局聖書以外に何を勉強したら良いかは未だに判然としない。代わりに、やった方がいいと思えることは幾つか出てきた。金は無くても時間だけはあるからな。色々試す価値はある。就職するのが現実的で、合理的かもしれないが、まだやり残していたことは沢山あることに気づかされた。

 

具体的にここには書かないが、試してみてその結果を今後順を追って報告できれば幸いだ。

 

じゃ、今回はこの辺で!٩( ᐛ )و